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佐平治に救われた秋山郷
佐平治の紙芝居を出張実演いたします。


佐平治に救われた秋山郷

佐平治に救われた秋山郷 このお話は今から約200年以上前、実際にあったことです。
凶作と飢饉が続いて人々の命が危機にさらされた時、自分の財産を投げ出して人々を
救った、佐藤佐平治のお話です。   



一、 天明の飢饉

今から二百二十五年前の天明三年七月浅間山が大噴火しました。火口から流れ出た溶岩が
まっ赤な川のようになってふもとの村を襲い数万人の人びとが亡くなりました。
ものすごい噴煙が空を覆いつくしてあたりは暗くなり、昼間もちょうちんを持って歩かな
ければなりませんでした。
このため、夏の間も低温が続いて田や畑の作物が採れず、全国的な大飢饉になりました。
津南でも、秋山郷の被害がとくにひどく、大秋山村と矢櫃村では村人が一人残らず飢え死に
し、二つの村が全滅しました。



二、 天保の大飢饉

それから五十年ほどたった天保年間に、秋山郷をまた大飢饉が襲いました。五月に
大雨が降って洪水になり、九月には雪が降って、結東では三十センチも積もりました。
田んぼの稲も畑の野菜もまったく採れず、人々は草や木の実などで命をつながなければ
なりませんでした。
その上に、伝染病がはやり、食糧不足では体の弱った多くの人々が死んでいきました。
秋山郷の村は、再び全滅の危機に陥ったのです。



三、 福原新左衛門の行動

この時立ち上がったのが、外丸村の庄屋、福原新左衛門でした。新左衛門は、魚沼郡の
総代を兼ねており、秋山郷の村々を回って飢饉の被害を詳しく調べました。
飢えに苦しむ人々の姿が頭を離れず、彼には「このままでは秋山郷のむらは全滅してし
まう、五十年前の悲劇を繰り返さないためにどうしたらよいのだろう。だれか、村人た
ちを救ってくれる人はいないだろうか」と考え続けました。



四、 佐藤佐平治

新左衛門の頭に一人の人の名前が浮かびました。小千谷片貝村の、佐藤佐平治です。
直接会ったことはありませんが、困った人を救う情深い人だという話を耳にしていました。
「そうだ、佐平治さんにお願いしてみよう。秋山郷の悲惨な状況を話して救援を頼めば
佐平治さんは救いの手を差しのべてくれるにちがいない。」新左衛門はさっそく佐平治を
たずねることにしました。



五、佐平治の善行

佐藤佐平治は片貝村で造り酒屋をしていました。忍冬酒や粟盛酒といった薬用酒が評判を
よんで、江戸に店を出すほどの繁盛ぶりでした。
佐平治はこれまでも、飢饉が起きるたびに、苦しむ人々を救って来ました。この天保の
飢饉のときでも、飢えに苦しむ人々のために、自宅で酒を造るための大釜を使ってお粥や
雑炊の炊き出しを行いました。
近くの村はもちろん、遠くからも人々がつめかけ、一ヶ月に千人以上の人々が、毎日食事を
与えられました。  



六、佐平治をたずねた新左衛門

佐平治をたずねた福原新左衛門は、秋山郷の飢饉の惨状を詳しく話し「どうか皆を救って
あげてください。」と、頭を下げてお願いしました。新左衛門の話を聞いた佐平治は、
「わかりました。私が何とかしましょう。」と、力強く答えました。
「ありがとうございます。」新左衛門の胸はよろこびと安心でいっぱいになりました。



七、救援始まる

秋山郷に対する佐平治の救援が始まり、食糧を受け取るために、秋山郷の村から人々が
出発しました。
 六十キロあまりの道を歩いて片貝村に着いた人々は佐藤家で一泊し、翌日、受け取った
米や稗の俵を一人一俵ずつ背負って、秋山郷まで運ぶのです。俵は三十キログラムから
四十キログラムありました。
 往復四日がかりのきびしくつらい道のりでしたが、これで村人たちが救われるのだと
思うと、勇気と力が湧いてくるのでした。



八、吹雪の中を

今の暦だと十二月ころのことで、人々は吹雪の道を必死になって歩きました。一度に
三十人ほどの人々が片貝村へ行き、佐藤家で受け取った米や稗を背負って秋山郷まで
戻るということが、交代しながら七回にわたって行われました。
二百人以上の人たちが救援の食糧を運ぶ役目をはたしたのです。彼らはみな、はだしでした。



九、千足のわらじ

片貝村の近くの真人村の庄屋、福原太郎左衛門は、村の道を重い俵を背負って通っていく
人たちが、雪の積もった道でもはだしで歩いていることが気の毒でなりません。
「冷たかろうに…。」彼は村人たちに言って大急ぎでわらじを作らせました。やがて、
できあがったわらじが秋山郷の人たちに届けられました。わらじは千足ありました。
人々はどんなにか喜んだことでしょう。



十、新左衛門の死

こうして、佐藤佐平治からおくられた米や稗によって、秋山郷の人たちは命を救われました。
しかし、左平治に会って救援を頼み、米や稗の運搬や配分などについて寝食を忘れて取り
組んでいた福原新左衛門は、過労が重なってとうとう病気になってしまいました。
新左衛門の娘が一生懸命看病にあたったのですが、その娘も一緒に亡くなるといういたまし
い結果になりました。
新左衛門はまだ四十三歳の若さでした。



十一、五十両のお金

左平治が行った救済は食糧だけではありませんでした。彼は結東村に五十両という大金を
与えました。今のお金にすると一千万円くらいです。
村ではそのお金を誰かしっかりした人に貸して、その利息を活用しようと考えました。
しかし、適当な人が見つかりません。そこで、「そうだ、左平治さんに借りてもらおう。」
と、お願いすることになりました。
 左平治は村人の願いを快く聞き届けて借り受け、毎年三両二分の利息を払いました。
この利息支払いは佐藤家の代々の子孫に受け継がれ、昭和四十二年まで続けられました。
なんと百三十四年間も続いたのです。結東の人たちは、佐藤家から支払われたそのお金に
よって、村の復興や発展を図ることができたのでした。



十二、左平治祭り

江戸時代、東北地方をはじめ全国で大飢饉によって数十万人の人たちが亡くなりました。
秋山郷でも四つの村が全滅しましたが、佐藤佐平治のおかげで大勢の人々が命を救われ
ました。
人々は佐平治の恩を忘れてはいません。佐平治や福原新左衛門の戒名を書いた掛軸を旧盆
の間中掛けて拝んだり、毎年佐平治祭りを行って感謝の気持ちをあらわしています。



十三、佐平治の心を伝えよう

二十一世紀の日本の社会は、天明や天保のころと比べるとはるかに豊かです。飢饉もなく
飢え死にする人もありません。
しかし、いじめや虐待が起こり、金を手に入れるためなら人を殺してもかまわない、といった
事件が次々に起きています。

財産を投げ出して人々の命を救った佐藤佐平治の心を、私たちは今こそ社会に伝えなければ
なりません。
命を大切にする佐平治の心を見習わなければならないと思います。



十四、佐平冶の足跡を訪ねて

結東の石垣田は明治二十五年頃より佐平冶の救援米の利子などをあて開墾が始まりました。
このあたりはどこを掘っても石だらけの土地で、大きな石を掘り起こして斜面に石垣を積み
土を運び込みました。「米を腹いっぱい食べたい」村人は前倉から水路を掘り水を引き込みました。
長い年月をかけて棚田は広げられ村人は安心して暮らせるようになりました。

平成3年、結東の石垣田は全国農村景観百選に選ばれました。棚田の入り口には結東の神社があり
佐平冶の遺徳を称えた石碑が建立され、毎年佐平冶祭りで感謝をしています。
(おわり)

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